厚生労働省の検討会が2026年8月21日に報告書をとりまとめ、職場の健康づくりのルールブックにあたる「THP指針」の改正案が公表されました。ひとことで言えば、これまで「生活習慣を良くしましょう」が中心だった職場の健康づくりに、がん検診をはじめとする「早く見つけて早く治す」という柱を加えるという内容です。改正案への意見募集は9月20日まで受け付けられており、その後の公示が見込まれています。9月は「職場の健康診断実施強化月間」でもあります。中小企業にとって何が変わるのか、いまから何ができるのかを整理します。
THP指針とは何か——名前は知らなくても関係している
THP指針は、正式には「事業場における労働者の健康保持増進のための指針」といいます。労働安全衛生法第69条が「事業者は労働者の健康の保持増進のための措置を継続的かつ計画的に講ずるよう努めなければならない」と定めており、その具体的なやり方を示したものがこの指針です。最初の公示は昭和63年(1988年)で、以来何度も改正を重ねてきました。
ここで大事なのは、これが努力義務だという点です。健康診断の実施のように「やらなければ違反」という性質のものではありません。ただ、健康経営優良法人の認定要件や、産業保健の実務の考え方は、この指針を土台にして組み立てられています。「名前は聞いたことがないが、実は自社の取り組みの下敷きになっている」——そういう位置づけの文書だと思っていただくとちょうどよいと思います。
いちばんの変更点は「二次予防」が加わること
予防には段階があります。生活習慣を整えて病気にならないようにするのが一次予防、健診や検診で病気を早く見つけて早く治すのが二次予防です。これまでのTHP指針は、運動指導・栄養指導・メンタルヘルスケアといった一次予防を主として組み立てられていました。
今回の改正案は、ここに「一次予防のみならず、二次予防も労働者の健康保持増進対策の一環として取り組むことが望ましい」という考え方を書き加えるものです。報告書は、二次予防を行うことで疾病の発症や重症化、疾病による死亡を防ぐことが期待できる、という理由を挙げています。背景として、がんが日本の死因の第1位であり、生涯のうちに約2人に1人が罹患すると推計されていることも、改正案のなかで新しく触れられています。
そのうえで報告書は、重要な但し書きも置いています。業務に起因すると認められない病気の二次予防については、事業者が推進の責務を負うものではない、という一文です。そこは強制ではなく、各事業場の実情に応じて、医療保険者などと連携しながら創意工夫して進めていくことが適当だとされています。「会社がすべて背負え」という話ではない、というのが出発点です。
対象は「がん」だけではない——女性の健康課題、歯、骨、目
改正案が二次予防の対象として挙げているのは、がんだけではありません。女性特有の健康課題(月経不順、月経困難症、過多月経、月経前症候群、更年期障害など)、歯科疾患、骨粗しょう症、眼科疾患が並べて示されています。
これは実務感覚としても納得のいく並びだと思います。会社を辞めるかどうかの分かれ道になりやすいのは、必ずしも重い病気だけではありません。毎月つらいのに誰にも言えない、歯の治療を先延ばしにしている、目が見えにくくて作業効率が落ちている——そうした「相談する場所がないまま続いている不調」の積み重ねが、結果として離職や生産性の低下につながっていきます。指針がここを名指しした意味は小さくありません。
具体的な検診として名前が挙がっているのは、国が市区町村の実施を推奨している5つのがん検診(胃がん・肺がん・大腸がん・乳がん・子宮頸がん)と、その結果に基づく精密検査の受診勧奨です。女性特有の健康課題や歯科・骨・眼科については、検査等と、その結果に基づく専門医への受診勧奨が挙げられています。
中小企業が実際にできること——お金をかけない方法から
「がん検診を会社で用意しろということか」と身構えてしまいそうですが、改正案が示している方法は幅があります。効果的な取り組みとして列挙されているものを、負担の軽い順に並べてみます。
まず、ほとんど費用のかからないものから。啓発パンフレットの配布、ポスターや社内サイトへの掲示、全従業員へのメールや社内通達の発出、そして本人が利用できる自治体の検診や健康相談の案内です。ここが実は中小企業にとっていちばん現実的な入り口だと考えています。
というのも、市区町村は健康増進法に基づいてがん検診を実施しており、お住まいの自治体の検診は、会社の規模に関係なく従業員本人が使えます。報告書はこの点をはっきり書いていて、短時間労働者などで医療保険者の実施するがん検診の対象にならない人についても、自治体の検診が利用できることを事業者が伝えるべきだとしています。パートやアルバイトの方が多い職場ほど、この一言の情報提供が効きます。
次に、制度としての一手間があるもの。改正案は、市町村の検診について「受診勧奨及び受診のための休暇の付与等」を挙げています。つまりがん検診を受けに行く日の特別休暇です。就業規則に一行足すだけで、「平日に休めないから行けない」という最大の障壁が下がります。費用助成も選択肢として挙げられていますが、まずはお金より時間のほうが、中小企業にとっては動かしやすいはずです。
さらに、健診機関と話をすれば済むもの。改正案には「健康診断実施者に対する精密検査の受診勧奨の業務委託」という一項があります。要精密検査という結果が出た人へのフォローを、健診をお願いしている機関にまとめて担ってもらうという方法です。「再検査に行ってくださいと社内で声をかけづらい」という悩みは、この委託でかなり解消できます。
気をつけたいのは「本人の同意」と「押しつけない設計」
ここは慎重に扱うべきところです。改正案の健康指導の項には、「労働者本人の同意を得て検査結果を把握した場合における」精密検査の受診勧奨や保健指導、という書き方がされています。がん検診の結果は、法定の健康診断とは違い、会社が当然に受け取れるものではありません。本人の同意なしに結果を集める、という進め方は取れないと考えてください。
そしてもう一点。検診は受けない自由もあります。科学的根拠を踏まえた正しい理解に基づいて判断してもらうために健康教育を行う、というのが改正案の立て付けであって、受診率を数字で追い立てることが目的ではありません。情報は全員に届け、判断は本人に委ね、受けたいと思ったときに障害がない状態をつくる。この設計にしておけば、後々の労使のトラブルも避けられます。
9月は「職場の健康診断実施強化月間」
同じ8月21日、厚生労働省は令和8年度の「職場の健康診断実施強化月間」についても公表しました。毎年9月がこれにあたり、10月の全国労働衛生週間の準備月間という位置づけです。
今年度の重点事項には、一般健康診断の実施・医師からの意見聴取・事後措置の徹底のほか、健康保持増進措置等の適切な実施、治療と就業の両立支援の周知、小規模事業場への対応、地域保健との連携(コラボヘルス)、外国人労働者や派遣労働者への対応などが挙げられています。THP指針の改正案と、見事に重なる顔ぶれです。
つまりこの9月は、法定の健診まわりを点検しながら、そのついでに二次予防の話を一歩進めるのに、ちょうどいい月だということです。健診の案内を配るときに、自治体のがん検診の情報を一枚添える。それだけでも、改正案が求めていることの入り口に立てます。
「攻めの予防医療」と健康経営のつながり
報告書は、国が今後取り組むべきこととして、産業保健総合支援センターや労働災害防止団体などと連携して中小企業等の事業者を支援すること、そして経済産業省が推進する健康経営との連携等により、「攻めの予防医療」に取り組む企業の見える化や社会的評価の向上を図ることを挙げています。
厚生労働省側の指針と、経済産業省側の健康経営が、名指しでつながりを持つと書かれた意味は大きいと思います。いま二次予防に手をつけておくことが、将来の健康経営優良法人の評価にもつながっていく可能性がある、という読み方ができるからです。もっとも、認定要件がどう変わるかは現時点で示されていません。先取りして体制を整えたから認定される、という話ではないことは申し添えておきます。
もうひとつ、改正案にはデジタルツールを活用して、生涯にわたる自分の保健医療情報(PHR)の把握に努めるよう、事業者が従業員に促すという趣旨の記述も入りました。健康経営優良法人2027の申請書にもPHRに関する設問が加わったと解説されており、こちらは別の記事で取り上げています。厚生労働省側と経済産業省側の双方から、同じ方向の話が同時に出てきている、ということになります。
なお報告書は、改正後の指針を踏まえた取り組み状況を把握するため、企業規模や地域ごとのがん検診等の取組状況に係る調査を行うべきともしています。数年後には「規模別の実施率」といった数字が出てくることになりそうです。
今週のうちにできること
最後に、この記事を読み終えてすぐ着手できることを3つ挙げます。
ひとつ目は、会社の所在地と、従業員が住んでいる市区町村のがん検診の案内を集めること。自己負担額も受診できる医療機関も自治体ごとに違います。数枚のチラシを休憩室に置くだけで、情報の空白は埋まります。
ふたつ目は、健診をお願いしている機関に、精密検査の受診勧奨まで頼めるかを聞いてみること。すでにオプションとして用意している機関も少なくありません。費用が発生する場合も、社内の手間と比べれば検討に値します。
みっつ目は、就業規則に検診のための休暇を入れられるか、社内で話してみること。有給とするか無給とするか、年に何回までとするか。決めるべきことはありますが、議論を始めるのに費用はかかりません。
おわりに
指針の改正案を読んでいて印象に残ったのは、「全ての措置の実施が困難な場合には、可能なものから実施する等、各事業場の実態に即した形で取り組むことが望ましい」という一文が、今回もそのまま残されていたことです。この指針は、もともと満点を求めていません。
従業員が10人の会社に、大企業と同じ健康管理体制は作れません。けれど、自治体のがん検診のチラシを配ること、検診に行く日に休みを取りやすくすること——これなら、明日からでもできます。そして、その一歩は決して小さくありません。早く見つかっていれば、という後悔をひとつでも減らせるなら、それは会社にとっても、その人の家族にとっても、大きな違いになります。
できるところから、無理なく。健康診断の受診率と事後措置の話や、健康経営のはじめの一歩も、あわせてご覧ください。
本稿の内容は執筆時点(2026年8月26日)の公開情報に基づきます。THP指針(事業場における労働者の健康保持増進のための指針)の改正案は意見公募の手続き中であり、最終的な内容は変更される場合があります。改正案の全文および意見公募要領はe-Govパブリック・コメント(案件番号495260158、受付締切2026年9月20日18時0分)を、報告書の全文は厚生労働省「事業場における労働者の健康保持増進の在り方に関する検討会」の公表資料を必ずご確認ください。がん検診等の実施内容・自己負担額は市区町村や医療保険者によって異なります。また、健康経営優良法人の認定要件との関係について、本稿は現時点で公表された資料からの見通しを述べたものであり、認定の取得や特定の効果を保証するものではありません。
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