年末が近づくと、パートで働く方から「今月はもうシフトに入れません」と言われる。人手が足りない時期に限って、そういう相談が重なる——長く現場を預かってこられた方なら、毎年のように経験されてきたことだと思います。その背景にあったのが、いわゆる「106万円の壁」でした。
その壁が、この10月になくなります。短時間労働者が社会保険に加入するかどうかを決めていた要件のうち、所定内賃金が月額8.8万円以上という「賃金要件」が撤廃されるからです。厚生労働省は、2026年10月に賃金要件を撤廃する予定であると案内しています。施行まで、もう数週間しかありません。
ただ、これは「壁がなくなって万事めでたし」という単純な話でもありません。判断の軸が、賃金から労働時間ひとつに移るという変化です。何が変わり、自社は対象なのか、順を追って整理します。
そもそも、何が「壁」だったのか
短時間で働く方が健康保険・厚生年金保険に加入するかどうかは、これまで四つの要件で決まってきました。①勤め先の従業員数が一定以上であること(企業規模要件)、②週の所定労働時間が20時間以上であること、③所定内賃金が月額8.8万円以上であること、④学生でないこと。あわせて、2か月を超えて雇用される見込みがあることも必要です。
このうち③の8.8万円を年額に直すと、おおよそ106万円。ここから「106万円の壁」と呼ばれてきました。保険料の負担が生じるのを避けるため、年末になると働く時間を抑える——そういう行動を制度側が生み出してしまっていた、というのが問題意識です。
今回なくなるのは、この③です。撤廃の理由として厚生労働省が挙げているのは、最低賃金の上昇です。時給が上がれば、週20時間働く人は自動的に月8.8万円を超えます。つまり賃金要件は、実務上すでに意味を持たなくなりつつあった——だから外す、という整理です。
残るのは「週20時間」という線
10月以降、短時間労働者が加入対象になるかどうかは、週の所定労働時間が20時間以上かどうかが実質的な分かれ目になります(企業規模要件、2か月超の雇用見込み、学生でないことは引き続き必要です)。
ここで注意したいのが、「所定」労働時間だという点です。判断のもとになるのは、実際に働いた時間ではなく、雇用契約書や就業規則に書かれた、通常の週に勤務すべき時間です。残業時間は原則として含みません。ただし厚生労働省は、常に残業が発生している場合などには、週の所定労働時間の算出に含むことがあるとしています。「契約は週18時間だが、実態は毎週22時間」という状態が続いているなら、それは説明のつかない形になりかねません。
ですから、いま最初にやるべきことは、制度を勉強することではなく、手元の雇用契約書を1枚ずつ確かめることだと思います。契約上の週所定労働時間が何時間になっているか。実際のシフトと、どれくらい離れているか。この棚卸しをしておけば、10月以降に慌てずに済みます。
自社は対象か——「51人」が今の線
もうひとつの要件である企業規模については、2027年9月までは従業員数51人以上が対象です。つまり、従業員が50人以下の会社は、この10月の時点では直接の影響を受けません。まずはここで、ご自身の会社がどちらなのかを確かめてください。
ただ、50人以下だからといって、他人事として置いておける話ではありません。企業規模要件は、これから10年かけて段階的に引き下げられていくことが決まっているからです。厚生労働省が示している予定は、次のとおりです。
2027年10月から36人以上、2029年10月からは従業員数21〜35人の企業、2032年10月からは11〜20人の企業、そして2035年10月には10人以下の企業までが対象になります。つまり、最終的にはほぼすべての会社に届くという見通しです。いま50人以下の会社にとって、これは「いつか来る話」ではなく、準備の期間を長めにもらった話だと受け止めるのが実態に近いと思います。
「20時間未満に抑える」が、いちばん高くつくかもしれません
保険料の負担を避けようとすれば、理屈のうえでは方法があります。契約上の所定労働時間を、週20時間未満に抑えることです。実際、そうした調整を検討される会社もあるでしょう。
ただ、この選択には二つの難しさがあります。ひとつは、働く人の手取りが減ることです。保険料を避けるために労働時間を削れば、その分の収入そのものがなくなります。もうひとつは、会社側の人手が減ることです。採用が難しい時代に、いま働いてくれている方の時間を自ら削るという判断が、本当に得なのかどうか。保険料という目に見える費用を避けた結果、人手不足という見えにくい費用を背負う——そうなっていないか、数字を置いて確かめる価値はあると思います。
むしろ、この機会に「週20時間を超えてしっかり働いてもらう」方向に舵を切るという考え方もあります。令和8年度のキャリアアップ助成金には、短時間労働者の所定労働時間を延ばして新たに社会保険に加入させた事業主を支援するコースが設けられています。なお、「年収の壁」対策として設けられていた社会保険適用時処遇改善コースは2026年3月末で終了しています。要件は細かく、事前にキャリアアップ計画を提出しておく必要があるなど段取りが決まっていますので、活用を考えるなら早めに所轄の都道府県労働局やハローワークへご確認ください。
増えるのは、負担だけではありません
ここまで費用の話が続きましたが、健康経営という視点から見ると、この改正にはもう一つの面があります。社会保険に加入するということは、その方が健康保険の被保険者になるということです。
健康保険には、傷病手当金という給付があります。病気やけがで働けなくなったとき、一定の要件を満たせば、休んでいる間の収入を一定割合で補ってくれる仕組みです。また、出産手当金もあります。いずれも国民健康保険では原則として設けられていない給付で、被用者保険に加入してはじめて使えるようになるものです。
これは、現場にとって小さくない違いだと思います。これまでパートで働く方が体調を崩したとき、「休んだら収入がゼロになる」という状態で働き続けていたかもしれません。無理を押して出勤し、治りが遅れ、結果として長く離脱してしまう。休めないことのほうが、会社にとっても本人にとっても高くつく——そういう場面を見てこられた方は少なくないはずです。
社会保険への加入は、「具合が悪いときに休める」という選択肢を、パートで働く方にも用意するということでもあります。健康診断の実施やストレスチェックと同じように、従業員が安心して働き続けられる土台をどう整えるかという話の一部として捉えると、見え方が少し変わってくるのではないでしょうか。
10月までに、三つだけ
残りの時間で完璧を期すのは難しいので、優先順位をつけるなら三つだと考えています。
第一に、従業員数を数えて、自社が51人以上かどうかを確かめること。ここが分かれば、10月に動く必要があるかどうかが決まります。
第二に、短時間で働く方の雇用契約書を並べ、週の所定労働時間を一覧にすること。20時間以上の方が何人いて、そのうち何人が現在すでに加入しているか。差分が、10月から新たに手続きが必要になる方です。
第三に、その方々に、事前に説明すること。給与明細から保険料が引かれるようになれば、手取りは変わります。何も知らされずにそれが起きると、不信につながります。逆に、将来受け取る年金が増えること、病気で休んだときの保障が加わることまで含めて先に伝えておけば、受け止め方はずいぶん違ってきます。この説明を丁寧にやるかどうかが、10月以降の職場の空気を分けるように思います。
おわりに
「壁」という言葉が使われてきたとおり、これまでの制度は働きたい人の前に、働く時間を抑えさせる仕掛けを置いてしまっていました。今回の改正は、その仕掛けを一つ取り除くものです。すぐに負担の話が出てくるのは当然ですが、長い目で見れば、人手を確保しやすくするための変更だと受け止めることもできます。
そして、企業規模要件の引き下げが2035年まで続くということは、どの会社にも準備の時間が残されているということでもあります。いま50人以下の会社であれば、次の数年で、パートの方の働き方をどう設計するかをゆっくり考えられます。健康経営のはじめの一歩と同じで、早く動いた会社ほど、選択肢を持って進められるはずです。
「うちは何人で数えるのか」「契約書をどう直せばよいか」——そうした具体的な段階のご相談も歓迎です。お問い合わせフォームからお気軽にどうぞ。働く人を大切にしながら人手を確保していく、その両立を応援しています。
本稿の内容は執筆時点の公開情報に基づきます。短時間労働者の適用拡大は、社会経済の変化を踏まえた年金制度の機能強化のための国民年金法等の一部を改正する等の法律(令和7年法律第33号)によるもので、賃金要件の撤廃時期および企業規模要件の段階的な引き下げの予定については厚生労働省・日本年金機構の案内に基づいています。助成金の要件や支給額は年度により変わります。具体的な手続きにあたっては、日本年金機構・年金事務所、および所轄の都道府県労働局・ハローワークにご確認ください。
← コラム一覧へ戻る