お客様からの理不尽な言動に、従業員が一人で耐えている。電話口で長時間怒鳴られ、店頭で土下座を求められ、それでも「お客様だから」と現場が飲み込んできた——そういう場面が、どの業種にも少なからずあると思います。
この10月から、そうした行為への対応が、法律上の義務になります。改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)により、2026年10月1日から、カスタマーハラスメント対策が事業主の義務とされました。ここで見落とせないのが、従業員が1人でもいれば対象で、中小企業の猶予期間が設けられていないことです。パワハラ防止措置のときは中小企業に2年の猶予がありましたが、今回は大企業と同じ日に始まります。残された時間は、3週間ほどです。
そもそも、何がカスハラにあたるのか
指針では、カスタマーハラスメントを三つの要素で説明しています。①顧客等の言動であること、②その従業員が従事する業務の性質などに照らして社会通念上許容される範囲を超えていること、③それにより労働者の就業環境が害されること。この三つがそろったものが対象です。
大事なのは、正当なクレームまで拒んでよいという話ではないという点です。商品の不具合や対応の誤りについて説明や改善を求められるのは、当然のやりとりです。線引きの目安になるのは、要求の内容が妥当か、そして要求を実現するための手段や態様が相当かという二つの軸です。要求そのものは正当でも、長時間の拘束や暴言、土下座の強要といった手段に及べば、そこからはカスハラという整理になります。
この線引きを会社としてどこに引くのかを決めておくことが、実は今回の対応でいちばん本質的な部分です。線が引かれていないから、現場が個人の判断でしのぐしかなくなる。逆に言えば、線を引いて共有するだけで、従業員の負担はかなり変わります。
指針が求める、五つの措置
厚生労働省は2026年2月26日に指針(令和8年厚生労働省告示第51号)を公布しました。事業主に求められる措置は、大きく五つに整理できます。
ひとつめは方針の明確化と周知です。カスハラには毅然と対応し、従業員を守るという方針を明らかにし、社内に知らせること。ふたつめは相談体制の整備。相談窓口を定めて従業員に周知し、担当者が適切に対応できるようにしておくこと。窓口は外部への委託も認められています。
みっつめは事後の迅速かつ適切な対応。事実関係を速やかに確認し、被害を受けた従業員への配慮を行い、必要に応じて警察への通報も含めた対応をとること。よっつめは抑止のための措置で、悪質な行為に対する対処方針をあらかじめ定めておくことです。警告文の発出や出入禁止といった手段が挙げられています。そしていつつめが、プライバシーの保護と、相談したことを理由とする不利益な取扱いの禁止を明確にすることです。
あわせて、同じ改正で就職活動中の学生などに対するセクシュアルハラスメント(就活等セクハラ)への対応も義務化されます(令和8年厚生労働省告示第52号)。採用面接やインターンシップを行う企業は、こちらも同じ10月1日からの対応になります。
罰則はない。ただし、名前は出ます
この義務に違反した場合の直接の罰則規定は設けられていません。ただし、行政による報告徴収、助言・指導、勧告の対象となり、勧告に従わない場合には企業名が公表される仕組みになっています。
とはいえ、公表を恐れて形だけ整えるのは、いちばんもったいない受け止め方だと思います。カスハラが放置された職場では、従業員が心身を消耗し、離職につながります。採用にかかる費用と時間を考えれば、対策を講じないことのほうがずっと高くつく。ストレスチェックの義務化の話ともつながりますが、働く人の心の健康を守る仕組みは、結局のところ経営の話です。
3週間で、最小限そろえるなら
専任の人事担当がいない会社で、いまから完璧を目指すのは現実的ではありません。まず形にすべきものを絞るとすれば、次の四つになると考えています。
第一に、方針を一枚の文書にすること。「当社は、お客様からの行き過ぎた言動から従業員を守ります」という宣言と、対象となる行為の例、対応の基本方針。A4一枚で十分です。就業規則への反映は追って進めるとして、まず方針を紙にして、朝礼や社内チャットで共有する。ここが出発点です。
第二に、相談先を決めて名前で伝えること。「困ったら相談してください」では動けません。誰に、どうやって連絡するのかを具体的に決め、その人が不在のときの代わりも決めておく。小さな会社なら社長ご自身でも構いませんが、大切なのは相談したことで不利に扱わないと明言しておくことです。
第三に、現場での対応の目安を決めること。何分を超えたら上長に代わるのか、どの段階で「これ以上はお応えできません」と伝えるのか、警察に連絡する判断は誰がするのか。数字と役割で決めておくと、現場が迷わずに済みます。
第四に、記録の取り方を決めること。いつ、誰が、どんな言動を受けたか。簡単な様式を一つ用意して、相談窓口に集まるようにしておく。記録は、後の対応の根拠になると同時に、どこで何が起きているかを見える化してくれます。
この四つが動き出せば、指針が求める中身の骨格は押さえられます。研修やマニュアルの整備は、10月以降に順を追って進めていけば十分です。
「守る」と決めることが、いちばん効く
いろいろ書いてきましたが、現場にとっていちばん大きいのは、文書でも窓口でもないかもしれません。会社が「あなたを守る」と決めた、という事実そのものです。
これまで、理不尽な言葉を受けた従業員が黙って耐えてきたのは、会社がどう判断するのか分からなかったからという面が大きいと思います。断ったら怒られるのではないか、売上を減らしたと責められるのではないか。その不安があるかぎり、人は相談しません。方針を明らかにするというのは、その不安を取り除く作業にほかなりません。
法改正がきっかけであっても構わないと思います。むしろ、「法律で決まったから」というのは、社内で話を切り出すのにちょうどいい理由です。この機会に、一度チームで話してみる。「こんなことがあった」という話が出てくれば、それだけでも大きな一歩です。
おわりに
10月1日は、もう目の前です。ただ、間に合わないと焦る必要はありません。方針を決めて、相談先を伝える。この二つだけでも、施行日までに十分できます。そこから先は、実際に起きたことを見ながら育てていけばよい仕組みです。
働く人が安心して仕事に向き合える環境をつくること。それは健康経営そのものであり、はじめの一歩として取り組んでこられたことの延長線上にあります。今回の義務化は、その取り組みに法律という後ろ盾がついた——そう受け止めていただければと思います。
「うちの業種だと、どこから線を引けばいいのか」「方針の文面をどう書くか」——そんな段階のご相談も歓迎です。お問い合わせフォームからお気軽にどうぞ。私たちも、従業員を大切にする会社を応援しています。
本稿の内容は執筆時点の公開情報に基づきます。ご紹介した制度は改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)および令和8年厚生労働省告示第51号・第52号によるもので、2026年10月1日施行です。具体的な対応にあたっては、厚生労働省の指針・パンフレットおよび所轄の都道府県労働局にご確認ください。
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