ある日、長く働いてくれている社員から「実は、がんが見つかりまして」と打ち明けられる。あるいは、打ち明けられることのないまま、「一身上の都合で」と退職届が出てくる——。小さな会社ほど、一人ひとりの存在が大きいぶん、こうした場面の重みは計り知れません。
この春から、こうした場面への備えが法律上の努力義務になりました。改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)により、2026年4月1日から、職場における治療と就業の両立支援が事業主の努力義務とされ、あわせて厚生労働省が「治療と就業の両立支援指針」(令和8年厚生労働省告示第28号)を定めています。
施行から半年がたちますが、10月1日のカスハラ対策義務化に比べると、話題にのぼる機会は多くありません。ただ、厚生労働省が9月に展開している「職場の健康診断実施強化月間」でも、重点事項の一つに「治療と就業の両立支援の周知」が掲げられています。今回は、指針が何を求めているのか、そして相談が来る前に何を整えておけばよいのかを整理します。
「努力義務」になった、ということの意味
両立支援そのものは、新しい考え方ではありません。2016年に厚生労働省がガイドラインを公表して以来、取り組みが呼びかけられてきました。今回変わったのは、それが法律に根拠を持つ事業主の責務として位置づけられたことです。法律(労働施策総合推進法第27条の3)に基づく指針として、ガイドラインから格上げされた形になります。
努力義務ですので、取り組まなかったからといって直ちに罰則があるわけではありません。ただ、「国として、どの会社にも取り組んでほしい」という明確なメッセージであることは間違いありません。
指針が対象とするのは、雇用形態に関わらず、すべての労働者です。正社員だけでなく、パートやアルバイト、契約社員も含まれます。対象となる疾病も、がんや脳卒中といった特定の病気に限られていません。医師の診断により、増悪を防ぐために反復・継続して治療が必要と判断され、かつ就業の継続に配慮が必要なものとされ、けがも含まれます。つまり、「うちには関係ない」と言い切れる会社は、ほとんどないということです。
指針の出発点は、「本人からの申出」
指針を読んでまず押さえておきたいのは、両立支援は労働者本人から支援を求める申出があったことを端緒に取り組むのが基本とされている点です。病気は私的なことであり、会社が本人の同意なく健康情報を集めるものではない、という整理です。
ここに、実務上の難しさがあります。申出を待つ仕組みである以上、「言い出しやすい会社かどうか」がすべてを左右するからです。病気を打ち明けたら仕事を外されるのではないか、迷惑をかけるくらいなら黙って辞めよう——そう考える人は少なくありません。指針も、申出が円滑に行われるよう、ルールの作成と周知、研修による意識啓発、相談窓口と情報の取扱い方法の明確化といった「申出が行いやすい環境」を整えることが重要だとしています。
そのうえで指針は、会社側の姿勢についても釘を刺しています。病気にかかったことをもって安易に就業を禁止せず、主治医や産業医等の意見を踏まえて、配置転換や作業時間の短縮などで就業の機会を失わせないよう留意すること。そして、措置を事業主が一方的に決めず、本人と十分に話し合うこと。善意からの「しばらく休んで治療に専念して」が、本人にとっては居場所を失う宣告に聞こえることもある、ということです。
平時に整えておく、四つのこと
指針は、支援の必要が生じてから制度や体制を考え始めていては適切な対応が難しいとして、平時からの環境整備を求めています。中身は大きく四つに整理できます。
ひとつめは基本方針の表明と周知です。「病気になっても、治療しながら働き続けられるよう会社として支援する」という方針を明らかにし、すべての従業員に知らせること。ふたつめは研修などによる意識啓発で、当事者になり得る従業員だけでなく、相談を受ける立場の管理職にも理解を広げることです。
みっつめは相談窓口の明確化。誰に相談すればよいのか、打ち明けた情報は誰まで共有されるのかを決めておくことです。病歴は個人情報保護法でいう要配慮個人情報にあたる機微な情報ですから、情報を扱う人の範囲を先に決めておくことが、そのまま相談しやすさにつながります。
よっつめが休暇制度・勤務制度の整備です。指針は例として、時間単位の年次有給休暇(労使協定を結べば年5日の範囲で1時間単位の取得が可能)、傷病休暇・病気休暇、時差出勤、短時間勤務、在宅勤務、長く休んだ人が段階的に戻るための試し出勤を挙げています。いずれも「各事業場の実情に応じて」とされており、すべてを揃える必要はありません。
実際に相談が来たら——主治医との「橋渡し」がかなめ
申出があったあとの流れも、指針に示されています。本人が会社に申し出たうえで、会社は仕事の内容や勤務時間などの情報を、本人を通じて主治医に伝える。主治医からは、症状や治療の予定、就業を続けられるかどうか、避けるべき作業や残業の制限、通院時間の確保といった配慮についての意見をもらう。会社はその意見と本人の希望を踏まえて、必要に応じて産業医等の意見も聞きながら、就業上の措置や配慮の内容を決め、「両立支援プラン」として形にする——という順番です。
「主治医に何を聞けばいいのか分からない」という心配は無用です。厚生労働省は、勤務情報を主治医に提供する際の様式例や、主治医の意見を求める際の様式例、両立支援プランの作成例を公開しています。本人が主治医に自分の勤務情報を伝え、意見を書いてもらうための「治療と仕事の両立支援カード」も用意されています。
医療機関の側でも動きがあります。報道や関係機関の案内によれば、2026年6月からの診療報酬改定で、主治医が勤務先と連携して行う両立支援の指導料(療養・就労両立支援指導料)について、対象疾患の限定がなくなりました。職場と病院が情報をやり取りする土台は、以前より整いつつあると言えそうです。
産業医がいない会社は、どうすればいいか
従業員50人未満の会社には産業医の選任義務がなく、「医師の意見を聞く」と言われても困ってしまう、という声は多いと思います。そのときに頼りになるのが、各都道府県に設置されている産業保健総合支援センター(さんぽセンター)です。両立支援の専門の相談員が配置されており、事業者からの相談対応や、事業場への個別訪問支援、本人と会社の間の調整支援などを行っています。地域の社会保険労務士に相談するのも一つの方法です。
小さな会社にとって大切なのは、社内だけで抱え込まないことです。「外に相談できる先がある」と知っているだけで、いざというときの判断はずっと落ち着いたものになります。
健康経営の評価項目にも入っています
健康経営に取り組んでいる会社にとっては、もう一つの接点があります。健康経営優良法人2027(中小規模法人部門)の認定要件には、「がん等の私病に関する復職・両立支援の取り組み」が評価項目の一つとして含まれています。ワークライフバランスや女性の健康、高年齢従業員への配慮などと並ぶ「土台づくり」の項目群から、一定数を満たす形です。
中小規模法人部門の申請締切は10月16日(17時)です。今年の申請に向けて検討中の会社は、両立支援の方針づくりを、申請準備の一つとして位置づけてみるのもよいと思います。もちろん、評価項目にあるから取り組むというより、取り組んだことが結果として評価の材料にもなる、という順番で考えるのが自然です。
まず、一枚の方針から
ここまで読んで、「制度を一から作るのは大変そうだ」と感じた方もいるかもしれません。けれど、最初の一歩はずっと小さくて構いません。
第一に、方針を短い文章にして伝えること。「病気になっても、すぐに辞める必要はありません。治療と仕事を両立できるよう、会社として一緒に考えます」。この一文があるだけで、打ち明ける側の心理的なハードルは大きく下がります。
第二に、相談先と、情報を知る人の範囲を決めること。「相談は社長か総務の○○さんへ。本人の同意なく、ほかの人に病名を伝えることはありません」と決めて伝えておく。
第三に、いまある制度を棚卸しすること。時間単位の有休は使えるか、時差出勤や在宅勤務はどこまで可能か。新しく作る前に、いまの就業規則で何ができて何ができないかを確認しておくだけでも、相談を受けたときの答え方が変わります。
この三つは、特別な費用もかからず、今月中にでも始められることです。
おわりに
医療の進歩により、がんをはじめ多くの病気が「長く付き合う病気」に変わってきました。指針もそのことに触れ、病気になったらすぐに離職しなければならないという状況は、必ずしも当てはまらなくなっていると述べています。変わるべきなのは、職場の側の備えです。
経験を積んだ社員が、病気をきっかけに黙って去っていく。それは本人にとっても、会社にとっても、大きな損失です。「うちの会社なら、言っても大丈夫」と思ってもらえる職場は、病気の人だけでなく、そこで働くすべての人にとって安心できる場所のはずです。健康経営のはじめの一歩として、ぜひこの秋、方針の一文から始めてみてください。
「うちの規模だと、どこまで制度を整えればいいのか」「方針の文面をどう書けばいいか」——そんな段階のご相談も歓迎です。お問い合わせフォームからお気軽にどうぞ。私たちも、社員を大切にする会社を応援しています。
本稿の内容は執筆時点の公開情報に基づきます。ご紹介した制度は改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)および「治療と就業の両立支援指針」(令和8年厚生労働省告示第28号)によるもので、2026年4月1日から適用されています。健康経営優良法人2027の認定要件・申請期間は、経済産業省および「ACTION!健康経営」ポータルサイトの公表内容に基づきます。具体的な対応にあたっては、厚生労働省「治療と仕事の両立支援ナビ」、所轄の都道府県労働局、または各都道府県の産業保健総合支援センターにご確認ください。
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